This is a part of story about Mr. Seiji Yoshiwara who had flown from Berlin to Tokyo in 1930. Airplane was Junkers Junior A50.  If you are interested in the contents, let me hear from you. I thank for Mr. Horst Zoeller of www.juners.de.vu in Frankfurt, Germany for permission to use a picture of A50.

 

小学生の頃から吉原飛行士の話は父から聞いた。1930年8月にベルリンから東京迄、ドイツ製軽飛行機、ユンカース・ユニオール A50、報知号で飛んだ報知新聞社の飛行士だ。昔は飛行士と呼んだ。英語でもパイロットでは無くアビエーターだった。女性ならアビエトリックスだ。報知新聞は読売新聞の前身だが父はイベント運営の一員だったので吉原さんと懇意だった。僕が高校一年頃、朝日新聞の科学雑誌で臥人式三角翼の飛行機を作る吉原さんの記事を読んだ。将来はロケットエンジンを取り付る計画等と話は大きかった。早速手紙を書くとお返事を戴いた。数日後、新宿淀橋の我が家を訪問された。1955年頃だった。

 

吉原さんは飛行機で始まり飛行機で終わる人生を送った。青年の頃は生家を担保に借金して飛行機作りに使い果たして母親に迷惑をかけた。若くて亡くなられた奥さんはプロペラのパテントを取った裕福な設計家の娘さんだったが経済的な苦労をかけたそうだ。千駄ヶ谷にあった僕の叔母のアパートに落ち着いた後は、佐賀から娘さんを呼んだがこの娘さんも苦労した様だ。ご健在なら今年は65歳である。吉永小百合に似た美人だった。

 

ベルリン-東京間を飛んだ後にフロートを付けて水上機に改造した。翌年の1931年には米国大陸迄無着陸横断を試みたがアリューウシャン列島付近で海上に不時着した。1932年には英国製のサンダース ロウの水上機でカリフォルニアのオークランドから太平洋を横断を試みたがテスト中に墜落してしまった。

 

父は吉原さんの操縦スタイルを同じ新聞社の浅井飛行士と比較して話した。浅井さんの操縦は慎重その物だったが、吉原さんは相当乱暴だった様だ。吉原さんは陸の上でも同じだった。当時の新聞社は連絡用に陸王等の大型自動二輪を使っていたが、吉原さんも良く使った様だ。踏み切りの竿と衝突して壊した事もあったと言う。吉原さんはそう言う武勇伝を自慢げに話した。僕も吉原さんの運転は知っている。”手がかれて居るだろう?”等と自信はあったが安心は出来なかった。

 

ベルリンー東京の飛行後は有名人になったそうだ。その頃の報知新聞には社内に著名な方々が沢山居られた。正力松太郎、野間清次、浅沼稲次郎、野村胡堂、矢田挿雲、これらの方は皆吉原さんをご存知だった。他にも有名な方の中には大隈重信公、文学者の与謝野晶子、等が居られた。飛行機が好きでジャイロコプターを製造した萱場工業の社長とは太平洋戦争後も懇意だった様だ。日本最初のオートレーサー、後のイースタン観光会長の藤本軍治さんもその一人だった。横道にそれるが日本最初のレーシングカーはハドソンのトラックを改造した物だった。藤本さんには2度程お目に掛かりお話を伺った。欧米のそれとは大層異なる競輪や競艇の様な道を歩んだ日本特有な競争自動車の歴史を後悔して居られた。

 

平野のホップスクター

 

ホンダのカブ号は戦後の風物史になった。自転車の横っ腹に白くて丸いガソリンタンクと赤色のカバーのついたエンジンがへばりついた原動機付自転車でバイクと呼んんだ。このエンジンを使って平野さんがスクーターを製造した。スクターは本格的な物を既に富士重工業がラビット、三菱がシルバーピジョンを作って居たので平野のホップスクーターは不成功だった。社長さんを呼びつけにするのは失礼だが、平野さんのホップスクーターではなく、平野のホップスクーターと言う商標だった。丁度その頃、吉原さんは知人の貿易商から、バンコックやシンガポールへ輪タクを輸出する構想を持ちかけられた。前輪2輪で後ろに運転手が乗るタイプだった。日本にも奈良等の観光地には同じような輪タクが走って居たが乗客は運転手の後ろに乗った。東南アジアでは暑くて汗をかくから運転手は後ろが良いと言う事だった。吉原さんと僕は平野さんのショップを訪問した。大崎か六郷近くだったと思う。ホップスクーターの車輪はスポーク付で大きさも手ごろだったのでエンジンその他の残存部品を活用しようとしたが、話は立ち消えになった。

 

この頃も吉原さんは飛行機を作る夢があった。ポピュラーメキャニックスと言う雑誌にベイビー・エイスと言う軽飛行機の作り方が連載されていた。アメリカではかなりの数のアマチュアが図面を買ったり、キットを買って作った軽飛行機だ。そこそこの飛行機だが、新聞社や航空会社が業務用に使う本格的な物ではないし、戦後の日本では遊びには高すぎるので、一体何に使うのか不思議に思った。前記の三角翼ロケットも日本版ベービーエースも日の目は見なかった。

 

オークランドの墜落事故について

 

吉原さんは不時着や墜落を経験して居る。不時着も墜落も理由が分かれば怖くないが、理由が分からないと気味が悪いと言った事があった。オークランドの事故の事は僕も聞かなかったが、吉原さんも話さなかった。当時の模様や事故で重症を負った事は過日、空の日博士の助手の方に教えて戴いた。博士は架空人物だがその方が良い、お忙しいご様子で助手の方がお返事を下さる。非常に参考になるサイトだ。 www.soranohi.net

 

ゴジラと稲垣監督

 

吉原さんは新聞社の事故機のエンジンを使って映画撮影用の送風機を作った。オート三輪の車体にエンジンを取り付けた物だ。東宝映画は長い筒の送風機を使って居たががさばるので、プロペラ部分だけ覆ってコンパクトにした物だ。移動が簡単であると言うセールスポイントは僕の提案だった。この頃、三船敏郎の蜘蛛の巣城、現石原都知事主演の日蝕の夏、かの有名なゴジラが東宝映画の砧撮影所で同時に制作されていた。

 

大隈重信

 

大隈重信は達筆だったが直筆を手に入れる事は先ず出来なかったそうだ。吉原さんは名案を思いついた。大隈邸の玄関で重信公のお孫さんに紙と鉛筆を渡し、おじいちゃんに汽車と書いて貰って来て頂戴とたのんだ。お孫さんは鉛筆だけもって戻ってきた。“おじいちゃんは書いてくれたけど破っちゃた”。と言う返事だったらしい。

 

アーヘン Aachenn

 

アーヘンはオランダの国境近くのドイツ西部の小都市だ。ユニオールを購入後テスト飛行を繰り返した所だ。余程懐かしかった様で思い出話の中で良く出て来た地名だ。多分、ユンカースの工場があったのでないかと思う。

 

原住民に自分は鳥だと言った話

 

ベルリンから東京へ向う途中で、東南アジアのどこかの国で平原に着陸した事があった。飛行機を初めて見た原住民に取り囲まれたが、吉原さんは両手を広げて自分は鳥であると言ったそうだ。吉原さんは土人と呼んで居たが、時代の流れを感じる。

 

その後、僕は大学に入り疎遠になってしまったが、ある日父が大崎のお蕎麦屋で吉原さんに会った。日本航空の内張りを請負い、4-5人の女性を雇ってうまく行って居るとの事だった。憲政の父と言われる尾崎行雄のご長男の尾崎行輝さんの息子さんが日本航空の重役だったのでそんなこんなのコネがあったと思うがこれは単なる推定 だ。尾崎行輝さんはシトロエンを輸入する日仏自動車を経営された事があるが吉原さんとは懇意だった様だ。

 

僕はボストンバッグ一つの身軽な格好でアメリカに来たので、吉原さんや報知号の写真や新聞記事は無い。懐かしくなって、インターネットを覗いたが、関係した記事は空の日と毎日インターアクテブだけで写真や詳しい記事は無かった。ユンカースのサイトから同型のユニオールA50の写真使用の許可を貰った。全金属製の美しい飛行機である。報知号は横腹に報知と漢字で書いてあった。

 

吉原飛行士の事を語るのには快挙の内容がどうしても必要になる。それを知りたくてウエッブサイトを見たのだが忘れらた日本航空史の一部になった様だ。資料をお持ちの方からのお便りが楽しみだ。

 

ユンカース博物館の許可を得て掲載 Copyright © The Hugo Junkers, Frankfurt, Germany

For more information about Junkers, please visit www.junkers.de.vu

 

 

 

 

 

 

弥永敏行

E-mail: yanaga@yanaga.com